インドカレーとコーヒーと

書きたい時に書く。

ビジネス書への愛情

 私はかつて、ビジネス書が嫌いだった。

 「人生を変える」だの、「夢を叶える」だのと御託を述べて個別の具体的な内容にはほとんど踏み込まず、耳障りの良い抽象的な言葉により、浅はかで不幸な読み手の関心を惹こうとする、その詐欺師まがいの手法を軽蔑していた。

 

 しかし、ある日私は考えた。「このようにボラタイルな世の中でも、私は決してその不幸な読み手たちの一人には含まれない」とは、必ずしも言えないのではないかと。

 そこで私は、将来詐欺師に騙されないように(あわよくば詐欺師側に回れるように)、数冊ほど啓発的な本を読んだ。いや、正確には聴いた。オーディオブックと自己啓発書のコンボである。そこでさらにセミナーにでも出ようものなら、情報商材まで手を出していたかもしれない。当時を思うと、我ながら寒気がする。

 オーディオブックを貶すわけではないが、せいぜいあれは気まぐれに聴くポッドキャストのようなものにしかならないだろう。少なくとも、私にとってはその程度のものである。音読を重要視する欧米などではポピュラーな存在かもしれないが、漢字圏である東洋においては音読は元々さほど注目されていない。

 そうした中でも、ハードワックスを塗りたくって頭髪をガチガチに固め、真新しいスーツとピカピカの革靴を身につけた若い社会人が、黒カバン片手にワイヤレスイヤホンで自己啓発本のオーディオブックを聴いているイメージが、なぜか私の中に嫌悪感を伴って湧いてくる。あまりに軽薄で、愚かな印象を与えるからである。抽象的・楽観的なものに逃げ込むだけならまだしも、それらに対してさえも誠実に向き合おうとしていないように私には見える。

 

 話をビジネス書に戻す。その時耳にした本の内容は、残念ながらほとんど覚えていない。覚えていないということは、つまりほとんど役に立たなかったということである。

 それもそのはずだ。私が読んだ実用書の中には、人間関係やマインドフルネスについて解説したものも含まれていた。しかし、引っ越しや勉強、就職活動で人間関係をほぼ断った私にアドラー心理学を説いても余り意味はないし、睡眠も満足に取れない状況下でマインドフルネスにまで配慮することは、かえってストレスになった。結局、ビジネス書は最低限の、または一般的な人間的営みをしている人口にのみ膾炙するものなのだろう。当時はそう考えた。

 

 しかし最近、私はビジネス書への愛が止まらない。内容はより薄く、タイトルはより厚いものほど愛しい。なぜ、このような内面の変化が生じたのか。視点が変わったからである。

 

 私は本屋に平積みにされている形でこうした本たちを見かけることが多いのだが、その際にいつも、本の著者や読者たちのことを考える。

 

 一体どんな心持ちで作者はこの本を著したのだろう!

自分の価値観に絶対的な自信があり、世のため人のためにそれを人々に教え伝えようという、無邪気なほどに傲慢な思い込みからだろうか?(可愛らしい!)

それとも、特別な自信があるわけではないが、本を通して人々に語りかける行為自体を有意義なものと考える、謙虚なようで実際もっとも高慢である衒学的な思想の表れか?(なんと愚かな!)

あるいは、価値観や社会などはどうでも良く、ただただ小金を稼ぐためだけに耳障りのいい言葉を並び立てているのだろうか?(すばらしい!)

 

 一体どんな思いで読者たちはこの本を手にするのだろう!

「上昇志向」を抱いて、明治維新よろしく自分の内面を up-to-dateなものに刷新したいのだろうか?(なんと健気な!)

「まだ変われる」と、自分の人生に対する希望を捨てずに心機一転頑張ろうとする決意を胸に秘めているのだろうか?(なんと気丈な!)

まさか、本の内容に純粋に感動して、後年まで誇らしげに「私の愛読書です」と触れ回ることをすでに夢想しているのではないだろうか?(大好きだ!)

 

 こうしたことを考えていると、自然と勝手にその人たちに対して親愛の情を抱いてしまう。そして、私の彼らに対する愛情は彼らだけにとどまらず、彼らをさまざまな方法で夢中にさせている一冊の本へと遠回りして向かうのだ。その妖しい、詐欺的な力に魅入られて。

ニュー・レリジョン・プログラム

 クリスマスは如何に過ごされるべきだろうか。

 由緒正しきカトリック教徒たちのように、キリストへの思いを胸に抱きながら、一家団欒の時を我が家で過ごすべきだろうか。

 それとも、キリストとは縁もゆかりもない人々のように、酒・金・セックスで彩られた年に一度の祝祭を楽しむべきだろうか。

 キリストにも、酒・金・セックスにも縁のない私は、クリスマスをどう過ごすべきか悩んだ。

 

 まず、大掃除をすることにした。そこで、山下達郎のクリスマス・イブやベートーヴェンの第九を聞きながら、今年度のゼミや講義の資料をまとめた。床には掃除機をかけ、トイレをピカピカに磨き、洗面所に溜まっていた洗濯物を処理した。

 掃除をしたら腹が減ったので、食事をすることにした。スーパーに買い物に行くと、引き取り手のいなかった鶏もも肉が半額引きにされていた。私は敢えて買わない決断をした。信念とプライドがそうさせたのである。

 

 

 なぜ日本の人々はクリスマスにチキンを食べるのだろう。七面鳥の代わりだろうか。それとも、ケンタッキーのせいだろうか。どちらでも構わない。真の疑問は、クリスマスになぜチキンや寿司、プレゼントのような、美食や高級品が消費されるのかという点にある。

 

 

 クリスマス、クリスマスイブはキリストの誕生日である。2日に跨っている理由は、キリストが24日の深夜に産まれたからである。そして、誕生日は祝うべきものである。したがって、クリスマス・クリスマスイブは美食や贈り物をもって祝われるべきである。この論理にはいくつかの飛躍が存在している。

 

 まず第一に、日本において一般的に誕生日において祝われるべき対象は、誕生日を迎える本人であるという点が挙げられる。

もちろん、キリスト教文化圏における誕生日の存在意義が我々のそれとは異なっている可能性や、イエス・キリストを我々世俗の人間と同列に見なすこと自体が誤った考え方である可能性も否定できない。しかし、そういったキリスト教的価値観が、我々日本人の間に浸透しているとは考えづらい。したがって、我々はクリスマスという棚ぼた、あるいは災害を、無条件に受容してしまっていると考えられないだろうか。

この人々に受容を求める存在が何であるかについて、私は興味がない。そして、日本経済にかかわる者として、人々のクリスマスシーズンの浪費のおかげで日経平均が安定し困ることは何もない。

しかし、私はその無条件の受容を拒否したい衝動に駆られた。「人は何か目的を持って行動するべきである」という、私の信念を貫くためである。この信念は、私にとっての教義であり、人生の根幹をなすものである。

 

 次に、クリスマスを祝う前提条件として美食や贈り物を仮定している点が挙げられる。確かにどの文化圏においても、祝い事には美食や贈り物が付き物である。しかし、豪華すぎる食事や品物は返って人々の心を貧しくし、高貴で慎ましい心と質素で健康的な生活を人々から剥奪するのではないだろうか。聖者であるキリストの誕生日に、そのような振る舞いはふさわしいといえるのだろうか。

私は特別金持ちになりたいわけではない。しかし、豊かな心を持ちながら長生きをしたいとは考えている。そして、そうした人生を送るに足るだけのお金を必要としている。クリスマスに美食・奢侈品を楽しむことは、これら両者から遠ざかることを意味しており、キリスト教精神とキリスト教的環境を持たない私にとって、この祭日は悪魔崇拝的な意味を持つものであるとさえ考えることができるのではないだろうか。

 

 

 どこまで失敗しようとも、私には信念がある。この信念さえ揺るがなければ、この人生も一概に無価値であるとは言えないのではないだろうか。特定の環境のもとで特定のルールに従って行動した個人の軌跡として、私の人生は人類史に眠る数多のサンプルの中の一つとして、誰かの(少なくとも私の)研究対象になり得るのではないだろうか。

 

 こうした信念を持つことを、揺るぎなく正当化するためには何が必要だろう。安ワインを飲みながら私は考えた。そして、信念の英訳がbeliefであることを思い出した。

beliefには複数の意味がある。信念。信用。そして信仰。アルコールが回った頭で私は閃いた。私の信念を教義とする宗教を開けば良いのである。

 

 ここに、ニュー・レリジョン・プログラムが開始した。

Go Bankrupt

 私は破綻しました。自分の力を過大評価したからです。自分の能力に見合わない将来を望み、分不相応な生活を続けてきたからです。

 

 人当たりの良さだけで生きてきました。周囲の人が望むように生きるため、勉強しました。勉強すると、人々の期待はさらに高くなりました。私はその期待に応えるために勉強しました。人を失望させるのが怖かったのです。

 

 そうした中である日、私は力尽きました。もう誰かの期待に応えるためにも、自分の身と心を守るためにも勉強できなくなりました。勉強が嫌になったのではありません。もう、何もかもがどうでも良くなったのです。

 

 その後はできるだけ、自分のために生きました。自分がやりたいと思った勉強をして、やりたくない勉強は手を抜きました。読みたいと思った本を読んだり、楽しいと思える範囲で運動をしたり、興味のある映画を見たりしました。

 

 しかし、その時私は自分にそんな資格はないということに気づいていませんでした。当時私は、私に限らず人間には最低限なんらかの価値があり、その価値が担保されている限り、各々が望む生き方を法的・倫理的に認められた範囲内で選択できると信じていたからです。

 

 おそらく私は、その人生につきまとう責任の方に無自覚でした。私はその責任を途中で投げ出し、責任を果たすことを期待していた人々の期待を裏切りました。かつて私が抱いていた恐れは、人々に対する怯懦だけから生まれたものではなく、この責任を放棄して自分という人間の評価を落としてしまうことへの恐怖にも根ざしていたのです。

 

 裏切られた被害者達は私を憎み、軽蔑し始めました。私も最初は、自分が被害者だと思っていました。他者に対し自由に期待を持つことができ、万が一その他者が期待に応えられなければ怒りの対象とし、蔑むことができる権利など、倫理的にも経済的にも反すると思っていました。

 

 でも、間違っていたのは私でした。人々に期待させること、それ自体が罪だったのです。

 自分の力を実力以上に見せながら、自分の力では実現不可能な未来を語りました。自己を過信しすぎていたためでもありますが、それ以上に人々が望んでいる答えを出して期待に沿えるようにしたかったからです。それがいつか、破綻することを知っていながら。

東京の夜景

 12月の午後6時は、都心が一年の内で最も輝く時間帯だ。

 師走の忙しさと日の沈む早さから、高層ビルの明かりはどの季節にも増して光り輝き、満天の星空のような絶景を労働者たちに恵んでくれる。

 報われない、退屈な労働の後に見るそうした光景は、肌を刺すような寒さと風に耐えながら懸命に働く我々に、明日への希望と新たな勤労意欲をもたらしてくれる。

 しかし、その星空を作り出しているのは我々労働者なのである。この光こそ人々が労働に捧げた時間、いわば命の灯火なのだ。

 

 桜の樹の下には死体が埋まっている!

大学院進学で得たもの

 2022年がもう終わる。本当に、あっという間だった。

 自分は結局、この一年で何を学んだのだろうか。去年の自分から、少しは進歩しただろうか。

 

 私はこの1年で少なからず鍛えられた気がするのだが、どうやら周りの意見は違うらしい。

 

 私が思うに、私がこの一年で得た主なものは、「ストレス耐性」と「鋼のメンタル」である。

 

 ストレス耐性は、卒業論文の発表から得た。発表の準備を当日の朝までに終わらせないといけないというストレス、発表してもあまり良い反応を得られないストレス、就活の成果物が発表当日ギリギリまで仕上がらないストレス、理系人材しか受け入れる余地のない社会に対するストレス。

 こうしたストレスが積もりに積もった結果、私はもはやストレスを苦役と感じなくなった。

 ストレスとは心のマラソンであり、筋トレである。生命の危機を身近に感じることの少ない現代社会において、多くの人々の心は肥太ってしまっている。安い食事と無料の娯楽が精神を堕落させ、人間から向上心と持続力を奪う。

 厄介なことに、この生活習慣病を外圧なしに治療することは困難である。なぜなら、この放漫な心を規制すべき理性そのものが、このような快楽を追求するようにできているからである。自ら進んで苦行を選ぶ理性、または快楽を避ける理性を持つものは、必然的に生存競争に敗れてしまうだろうから。こうした心を押さえ込むには、理性ではなく規範が必要となる。

 そして、この規範を心に課す時に、理性がそれに反発することからストレスが生じるのである。人類の驚くべき発明の一つである宗教は、規範に従うことを善とする絶対的価値観を個人の理性に植え付けることで、理性の抵抗なく心を抑圧することに成功した。これに比べて、合理性という教条を課した理性に従うのみの科学というものは、実に未熟で矮小なものではないか。

 今の私には宗教がないから、ただ生じるストレスを耐えることしかできない。しかし、これでは理性を抑圧する一方で理性的営みを行うことになるので非効率的であり、その内容は十分精錬されたものであるとは言い難い。そして、この不完全性が完全生の追求という別の規範に反するため、心は深刻なダメージを負うのである。

 こうした試練と挫折を繰り返す中で、理性は生存本能を働かせて苦痛を快楽に変換した。現在は心を締め付けるほどに気分が高揚してくる。

 

 そうして、いつか突然死ぬのだろうな。

 

 鋼のメンタル、つまり鋼の心は上記のストレス原因である規範を心に強制した結果生まれたものである。規範を守ることで身につけた鎧と、規範を破ることで得た剣を装備した心が、その正体である。

 この心には攻撃が効かない。具体的には、いくらプレッシャーを掛けてもびくともしない。焦ることも緊張することもなく、ただ自分の運命を粛々と受け入れるだけだ。

 このメンタルの根底には諦観があるが、そこには自分の価値観に対する揺るぎない自信ものぞいている。自分の価値観、つまり自己規範を充実させることで得た自己肯定感と、自己規範に反することで得られた火遊びのような経験が、この自信の根拠となっている。

 私はこのメンタルを持つことで、他者からのあらゆる期待を無視すること、そして自分の人生を真摯に受け止めることに成功したのではないかと考えている。このような、ある種自分勝手な人生は批判されるべきものかもしれないが、私はこうした批判に次のように答えるだろう。

 

「ごめんなさい。」と。

人生の消化方法について

 最近、これから何をして生きていこうかと、真面目に考えるようになった。もっと早く考えるべきだったかもしれない。

 自分が本当にやりたいことは何か、今それが出来ているかと考え始めると、あっという間に時間が経ってしまう。

 仕事はしないといけないだろう。でも、どんな仕事をやりたいのだろう。どの仕事も一見魅力的に見えるが、実際にやってみると「こんなものか」と飽きてしまうことが、経験上予想できる。特別やりたい仕事もなければ、やりたくない仕事というのもあまり思いつかない。興味のある仕事が何個かあるくらいだ。

 仕事は割り切って、趣味に没頭するのはどうだろう。学生の間に様々な趣味に触れたこともあって、色彩豊かな人生を送れるくらいの下地はある。しかし、そのどれもが生涯をかけて取り組むほどの趣味だとは到底思えない。結局のところ、浅く広くが私の人間性なのだ。

 仕事も趣味も中途半端。特に贅沢や名声を求めているわけでもなく、これといった野心もない。惰性で生きるには、残りの人生はあまりにも長すぎる。

 だが、「これでいいのかもしれない」と思い始めた私がいる。疲れたのか、それとも諦めたのかは分からないが、具体的な目標を持たずに、消費と生産を交互に繰り返すような人生も、一つのライフサイクルと言えるのではないだろうか。

 私の目的関数は効用関数でも利潤でもなく、ただの0なのかもしれない。最大化の概念すら存在せず、正でも負でもない。長期的に見れば何の不足も余剰も産み出さない0。

 この0の人生を、どのように意義深いものにするかなど、結局のところ考えるに値しないのだろう。

生卵

 生卵を割ることは、世界で最もグロテスクな行為かもしれない。

 

 卵型の顔が美形を定義づける要素の一つとしてよく取り上げられるように、卵の形は世間一般からも美しい形として認識されている。

その一点の曇りもなく白く、滑らかで美しい殻を無惨にも破壊して、無色無臭のゲル状の液体と、それらに反して鮮烈なオレンジ色を持つ不安定な球体を、ボトリと取り出すのである。

その、何か生命の秘密のようなものを白日の下に晒すような行為を、グロテスクと言わずして何というだろうか。

また、このような破壊と暴露は、ありとあらゆる残虐的な行動を象徴しているとさえ考えられないだろうか。

残酷の対義語として慈愛がある。この単語は、慈しみを注いで可愛がる感情のことを指しているようだが、これはまさに生卵を抱擁する親鶏の態度そのものではないか。

もちろん、鶏は本能に従っているに過ぎないだろう。しかし、それを見て人間は何かしらの母性を感じるものである。人間の立場から見て母性的であれば、それは母性的な行動と考えても差し支えないだろう。なぜなら、考える主体は人間だからである。

この母性的な営みのもとで守られるはずだった、美しい生卵を、私たちは日々破壊し、グロテスクな中身をかき混ぜ、醤油と一緒に啜っている。真に恐ろしいのは、この一連の行為の残酷性にほとんどの人が無自覚でいることである。

より理性的に生きるためには、私たちは生卵を断念するか、この無慈悲について自覚する必要があるのではないか。