インドカレーとコーヒーと

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「葬送のフリーレン」についての些細な発見

 2023年の大半が後方へと過ぎ去り、今年も冬が来た。

 20代も半ばの「お兄さん」になりつつあるにも関わらず、中身はちっとも変わっていない。幾つになっても、面白いものは面白いし、つまらないものはつまらない。

 しかし、焦ってアダルトにならなくてもいいじゃないか。それほど価値があるものでもないのだ。「大人」というものは。

 

 精神的に若々しく、未だ、みずみずしい感性に恵まれている私は、最近「葬送のフリーレン」を愛読するようになった。昔は、次から次へと興味を惹く漫画をあちらこちらから見つけてきたものだが、近年このように新しい漫画に入れ込むのは、年に1回あるかないかである。

 その漫画を繰り返し読んでいるうちに、私はある発見をしたのだが、ネットでその発見があまり広まっていないことに気づいた。そこで、その発見をボトルメールよろしく、電子の海に投じたくなったのである。

 

 問題のシーンは、7巻にある。南の勇者とフリーレンが会話している場面である。ここで勇者はフリーレンに、「君は私の魔法を知ったとしても、一生誰にも言う事はない」と発言している。おそらく、勇者はその前のコマで「...君には言っても問題ないな」と発言しているので、未来を見て判断したのだろう。さらに、そのもう一つ前のコマで勇者の顔がアップになっているが、おそらくこの瞬間に、彼女が一生、この秘密を口外しないことを確認したのではないだろうか。

 

 しかし、ここで注目しなければならないのは、この「一生誰にも言う事はない」という部分である。つまり、フリーレンはこの瞬間、未来のいずれかの時点で死ぬことが確定したのだ。

 

 ここで、この彼女の死について、簡単な考察を行う。まず、いつ死ぬかについて考えてみたい。しかし、これについては正直なところ、あまりにも候補となる機会が多すぎるため、いくつかその例を挙げるに留める。

 

 第一の候補は、物語の目的地、オレオールに到着した時点だろう。メタ的に見て、そこがおそらく物語の山場であるし、死後の再会という、近頃の少年誌作品に相応しい、様式美的なエンディングにも繋がる。暗い展開と考える方も多いかもしれないが、現に大ヒットした「鬼滅の刃」や「呪術廻戦」にも、似たような展開があったではないか。

 

 第二の候補は、物語の終了後、エピローグ的な話の中での死である。これには数パターンが考えられる。バッドなパターンでは、1000年後の魔族との戦争の最中、命を落とすというものがある。現に6巻で、直感が常に正しいとされているゼーリエから、「お前を殺す者がいるとすれば、それは魔王か、人間の魔法使いだ」と言われている。物語終了後、新しく誕生した別の魔王に殺されるのではないかというのが、私のこの場合における、第一の説である。

 また、10巻では、南の勇者と同じ、未来を見る魔法を操るとされるシュラハトが、フリーレンに彼との戦いを見せることがないよう、マハトの記憶をグラオザームの能力により消去していることがわかる。これは、同巻で彼が言及している、「千年後の魔族のための戦い」のためではないだろうか。つまり、彼女は物語終了後も生き続けるが、千年後の魔族との戦いに参戦し、この情報が欠落していたがために命を落とすのだ。このように考えれば、上に記載している南の勇者の発言で、「...」が使用されていることにも辻褄が合う。Wikipediaによると、三点リーダーは、余韻や時間的な間を表すために用いられることがあるらしい。勇者は自分とシュラハトとの時空を超えた戦いの中で、フリーレンが命を落とすことに気づいたために、気まずさから彼も間を置いたのではないだろうか。

 

 しかし、もちろんグッドなパターンもある。もちろん、これをグッドとするか否かは、人によって異なる意見が出るとは思うが、昨今のエンタメ界の潮流からして、バッシングは受けづらいのではないかと思われる。それは、フリーレンが人間の魔法使いに、「間接的に殺される」未来である。こちらは、先程のバッドなパターンと比較すると、少し証拠に弱いのだが、それでもゼーリエの直感には合致している。

 ここで、なぜ「間接的に」なのかというと、それは単純に彼女が人間側の英雄だからである。実際、物語中で直接的に彼女を殺そうとした人間も存在はしたが、フリーレンから不器用なゼーリエの本心を教えられてからは、矛ならぬ杖を収めている。従って、ゼーリエにも未だ目を付けられていない、極めて魔法に習熟した人間が、悪意を持ってフリーレンを攻撃しない限り、直接的に彼女を殺すことはほぼ不可能なのだ。もちろん、物語中に何人か、底の見えない異端児の魔法使いが登場してはいるが、メタ的な視点から見て、このような突飛な存在が物語の根幹に大きく関わるような活躍をするとは考えづらい。某グール:reのように、単純にエンタメとして興醒めなものになってしまうのだ。

 では、どのようにフリーレンを「間接的に殺す」のかというと、それは、彼女に適当な魔法をかければいいのである。魔法はイメージの世界だ。ならば、フリーレンが普通の人間のような感覚や感性を持つことができたならば、彼女に人間のように死ぬ魔法をかけることもできるはずだ。しかし、この魔法が未だ登場していないという点で、この説は弱い。だが、仮にこの場合、彼女にこの魔法をかけることができるような人間の魔法使いは、おそらく一人を除いていないだろう。それこそが、フェルンである。彼女ならば、技術的な面でも、そしてフリーレンの人間的な、だらしない側面を多く見てきたという点で、想像力的な面でも、この魔法を使うことができるはずである。もちろん、フェルン側の心理的なハードルはかなりのものになるがろうが、おそらく、フリーレンの方からフェルンに必死に頼むのではないだろうか。きっと、冒険が終わった後に。

 

 次に、どこで死ぬかについて考察を行いたい。上にあげた3パターンの死に時期を、それぞれ①、②、③と表すことにする。①の場合、これはいうまでもなくオレオールである。②の場合、これは正直なところわからない。魔王城があるオレオール周辺になるかもしれないし、ハガレンよろしく、勇者ヒンメルの墓の前かもしれない。③の場合、おそらく死に場所は物語中で明らかにはされないのではないだろうか。ただ、人間と同じように天寿を全うした、それだけで終わりそうな気がする。そういえば、「鬼滅の刃」も、そのような終わり方だった。

 

 では、誰が殺すか。これは①の場合、自死の線が濃い。仮にフェルンが殺したならば、なんとも後味の悪い終わり方になってしまう。②の場合、これは先述の通り魔王だろう。③の場合はフェルンとなる。誰が殺すかについては、6巻にあるゼーリエの直感から、魔王か人間の魔法使いに大別できるため、それほど困らない。唯一の問題は自死をどのように考えるかだが、この場合は人間的な感覚を持った魔法使いが、エルフとしての自分を殺すと考えれば、苦しいながらも説明はできる。また、魔法使い以外がフリーレンを殺害する場合についてだが、これもメタ的に考えづらい。劇場版コナンで阿笠博士とジンが銃撃戦を繰り広げても、観客はそれだけでは満足しないだろう。

 

 最後に、どのように殺す・されるかである。①の場合、これはやはり、ゾルトラークではないだろうか。6巻にもあるように、エルフの魔法使いは長寿であるため、古い魔法では反射的に防御魔法を展開して、無意識に攻撃を防いでしまうと考えられる。そこで、一瞬対処が遅れるゾルトラークを、何らかの手段を用いて、防御が困難な状態の自分に発射することで、自死するのである。ミミックとか、いいかもしれない。

 ②の場合、これは推測が難しい。というのも、おそらく南の勇者が絡んでくるからである。そのため、私の勝手な想像だが、おそらく、「賓ならそうした」と述べた後、勇者パーティー不在の状態で魔王に挑むこととなり、普通に負けるのではないだろうか。

 ③の場合、これは上述の、人間のように死ぬ魔法ではないだろうか。もちろん、魔法が上達したフェルンならば、ゾルトアークで殺すことも可能となるだろうが、流石に後味が悪すぎる。

 

 以上の考察結果から、フリーレンは作中において死亡する、またはその死を匂わされる可能性が高く、その死亡パターンも現在の物語進行度から、いくつか考えられるということがわかった。なお、私は「葬送のフリーレン」の要素の中でも、カズオ・イシグロの小説に見られるような、(感情・感性が乏しいが故に)信頼できない語り手としてのフリーレンと、同著作に含まれる「日のなごり」や「遠い山なみの光」に見られるような、取り返しのつかない過去への甘酸っぱい追憶に魅力を感じているので、個人的には死亡エンドは好みではない。ただし、蛇足だがアニメ版は少し、恋愛描写に力を入れすぎではないかと思うのが、個人的な心境である。「お兄さん」的には、あまり露骨に押し出すと、それだけ安っぽく見えてしまうのだ。甘酸っぱいのがいいのであって、甘々なのは灰色の「お兄さん」にはきついのだ。