インドカレーとコーヒーと

書きたい時に書く。

内定鬱

 10月に入り、内定式のシーズンとなった。2023年も終わりが近づいてきたと感じる、今日この頃である。研究の進度は芳しくないが、何とか卒業はさせてもらえるのではないかと、あまり深刻には考えないようにしている。

 

 しかし、最近になって、私は本当に卒業したいのだろうかと考えるようになった。研究をしたいわけではないのだが、就職もしたくないのである。それでは、親に甘えるか飢え死にするかしかないのだが、親脛を齧ることにも路傍で行き倒れることにも、心理的な抵抗があるというのが実情である。

 私はこの状態を、「曖昧さへの指向」と名づけることにした。これは一種の幼児退行であり、現代社会への拒絶反応である。そして、そのような非合理的で、精神的に「不健全」な状態であることを、広義的な鬱として社会は診断するように思われる。

 

 しかし、私にとってこの現象は、むしろ自然的であるように思える。自然界で不可逆的にエントロピーが増大するように、私もまた「曖昧さ」を本能的に指向するのだ。この営みは潜在的なもので、意識的には決して行われ得ないものである。なぜならば、それを意識した瞬間、私は「曖昧さ」にたいして、何らかの具体的な形を与えてしまうからである。

 

 私がこの「曖昧さ」を求める理由の主たるものは、確定的な未来への恐れと現実からの逃避である。こうした感情を説明する理由として、私は次の仮説を考えた。それは、私が外面的に卑屈でありながら内面的には尊大なため、自己の理想から外れている現状を受け入れられないというものである。

 私自身、この説に納得させられることも少なくはなかった。事実、私は社会に参加する素振りを見せながら、傲慢なことにそれを拒絶しているのである。しかし、この説を完全に認めるには、「自己の理想」のある程度具体的な内容を明らかにする必要がある。

 

 しかし、私には、私を現実に対して反抗させるだけの理想が見当たらないのだ。賢くなりたいわけでも、孤独から脱したいわけでもない。むしろ、一人暗愚でいる状態を、一種の人生のスパイスのようにさえ感じている。

 

 私は病気なのだろうか。しかし、病気ならばなぜ苦しみを感じないのか。今の私は、かつてのいずれの時点における自分よりも、快適な生活をしている。それは金銭的、衛生的に快適という意味ではなく、いわば精神的に快適なのである。怒りや焦りといった、激しい感情に磨耗することもなく、ただ不明瞭な恐れを抱きつつ激情をもたらす環境からの逃避行を続ける、動物的な生に安住しているのだ。

 

 この生き方が人間的な生の上位に属するか下位に属するかについては、あまり関心を抱かない。どちらであろうと私はこの生を求めるだろうし、それが自然なのである。

 

 人間は学び、働き、子孫を残して死んでいくが、その過程の中で構築される社会は、反自然的なものである。それは個人に役割を与え、曖昧さを許さない。ところで、法治国家の背骨が法律だとすれば、社会のそれは文化であると考えられる。したがって、文化から逸脱した人間は社会において、自己に適合した役割を見出すことができない。

 

 つまり、私はこの社会における異邦人であり、それが故に曖昧さを指向するのだ。