インドカレーとコーヒーと

書きたい時に書く。

変わらないもの 〜美と愛について〜

 我悟れり。世において不変なるものは、美と愛のみなり。愛は対等な関係の内のみに生ず。それ以外のものは美なり。

 愛する対象、美を感ずる対象は目まぐるしく変われども、愛する行為、美を感ずる行為は不変である。

 愛し方、美の感じ方は百者百様といえども、人間は愛するし、美に魅了されるのだ。

 

 「金閣寺」は「美」のストーカーの物語であると考えられる。主人公は、金閣寺という「美」に魅せられ、それを愛そうと試みた。しかし、「美」はそれを拒んだ。そこで、彼は共に燃えることで「美」と一体化し、表面上対等な関係を築こうと試みたのだ。それでも、最後に彼は「美」を殺したものの死にきれず、愛することに失敗したのだ。

 

 なぜ、不釣り合いな関係の中で生まれる「愛」が歓迎されないのか。それは、愛を騙る美だからである。そのような、歪んだ美が生じるのは、感情を抱く主体が自らの価値を高く見積もっているか、またはその主体が感情の対象となる存在の価値を低く見積もっているかのいずれかが原因であると考えられる。いずれにしても、これは社会一般の価値観に対する挑戦に他ならない。

 

 本来、美は不可侵なものであり、無条件に敬意を払われるべきものである。そのようなものに対して、畏れ多くも自分がその美に値すると考えることは、対象との関係がどちらに傾いているかに関わらず、道義に反することである。

 仮に、価値が自分より低いと感じられるような相手であっても、そこから生まれる愛は、いわば哀れみに近いもので、それは自分自身を美に近づけようとする試みに他ならない。それは、無思慮に自分を最高の存在へと押し上げようとする、不遜な試みであり、浅ましく、かえって醜い。

 関係が自分より高いものに対しては、言うまでもない。そのような者は、対象だけでなく、社会全体を敵に回すのだ。

 

 私が思うに、いわゆる「弱者男性」とは、分不相応に愛を求める存在である。彼らは愛に飢えているが、対等な関係を築くことなくそれを求めようとするので、醜く感じられるのだ。

 無論、それは一部の女性にも言えることである。彼らもまた、意識的にも無意識的にも、真に対等な関係を築こうとしない。故に、少なからぬ人々に不快な感情を与えるのだ。

 

 万物に対し、美を見いだせ。その美を称賛することが、やがて愛につながる。

 

 お前は、美を求めず、見出そうともしていない。

 文章、絵画、音楽、彫像、映画、スポーツ、会話、数式、動物、人間、空、海、大地、宇宙、全てが美を含んでいる。なのに、お前の感性は、それらを素通りしているのだ。

 耳を澄ませ、凝視せよ。五感の門を開け放て。思考を働かせて、感性に美を醸させよ。努力しなければ、お前は美を真に称賛することができない。

 

 美に対し敬意を払おうとしないものは、傲岸不遜で孤独な存在である。お前は敬意を払わねばならない。敬意を払った結果、何を得られなかったとしても、お前はその努力をしなくてはならない。

 お前は奴隷である。だが、奴隷の身であることが、お前を幸福にするのだ。