インドカレーとコーヒーと

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科学の虚しさと神の有無

科学は虚しい営みだ。人間の理性と悟性の限界を試みるこの行為には、満たされることのない空腹感と行き止まりというゴールが伴う。人間は自分たちの非力さを知るために、少なくない費用を投じて科学するのだ。

 

人間はなぜ、動物のように生きられないのだろうか。彼らは科学しない。自然や自己をありのままに受け入れて、一切の研究を放棄する。そこには、世界への宗教的な賛美が、無条件に込められているように感じられる。

 

科学者でも神の存在を信じているという人はいるだろう。しかし、彼は現時点で人間の理解が及ばないものを暫定的に神としているか、慣習や教義に対する合理的判断に基づいて、その神を頂点とする宗教を信じていると見せかけているに過ぎないのだ。真に神を信じる、これを盲信と彼らは呼ぶが、その状態では世界のありとあらゆる要素はすでに解釈されているのである。

 

この意味において私は、神の存在を信じる者と信じない者の2種類に、人間を大別できるのではないかと考えた。科学者は後者のグループに含まれ、所謂、敬虔な信者は前者に含まれる。私としては、両者において優劣を判じるつもりはなく、ただどちらがより幸福か、つまり楽であるかということに興味がある。結論から述べると、それは前者である。

 

科学者の仕事は、究極的には自己否定である。彼らは人間の限界に到達するまでその営みを止めることはなく、その限界を判然とさせることを至上の命題としている。
しかし、皮肉なことにその営みが決して完結し得ないことが、科学的に証明され得るのである。

仮に、科学が示し得る人間の限界というものがないと仮定する。この場合、科学という営みに終わりがないことは明確である。一方、限界があると仮定すると、その限界を知覚すること自体が、人間の限界を超えたものである必要がある。そこが限界であることを示すには、それより先には進めないということを示す必要があるが、それは人間の視点からはわからないのだ。遠い未来のある日、科学が壁に行き着いたので、これで科学はおしまいだとはならないのである。仮に、そういう人間が現れた場合、彼はその壁の敬虔な信者の一人になったということだ。

達成され得ない目的に対して心血を注いで、自然や人間に対して懐疑的になり、研究を行う。この営みから生まれるものは、終わらない闘争であり、最終的には無である。

 

科学者の虚しさに対し、神の存在を信じるものは充足感に満たされている。彼と、彼を取り囲む世界には意味があり、その意味を疑う行為は存在すらしてはならない。神の世界に住む者は、一切の対象に疑問を抱くことなく、完結した閉じた世界で、唯々諾々と死んでいく。無駄な争いに巻き込まれることもなく、神の存在を信じる限り、少なくともそこには神という絶対的な存在がある。

世界に宗教が一種類しかなかったら、人類が科学することはなかったのではないだろうか。そう思わせるほどに、この世界は美しい。

 

私は楽に生きたい。だから私は、神を信じよう。
次に神を殺すのだ。

 

なぜ殺すのか?それは私が、世界を美しいものと認めたくないからだ。
私にとっての世界は、無秩序で、不条理で、混沌としていなくてはならないが、絶対的な神の存在は、夜空の北極星のように、全体に調和をもたらしてしまうのだ。

私は世界や人間をありのまま受け入れたい。そこには法則性を見出すべきではないし、秩序を求める必要もない。

きっと、全ての人間が私に剥き出しの憎悪を向けてきたら、私は安心するだろう。これこそが、ありのままの人間の姿なのだと。