インドカレーとコーヒーと

書きたい時に書く。

科学の虚しさと神の有無

科学は虚しい営みだ。人間の理性と悟性の限界を試みるこの行為には、満たされることのない空腹感と行き止まりというゴールが伴う。人間は自分たちの非力さを知るために、少なくない費用を投じて科学するのだ。

 

人間はなぜ、動物のように生きられないのだろうか。彼らは科学しない。自然や自己をありのままに受け入れて、一切の研究を放棄する。そこには、世界への宗教的な賛美が、無条件に込められているように感じられる。

 

科学者でも神の存在を信じているという人はいるだろう。しかし、彼は現時点で人間の理解が及ばないものを暫定的に神としているか、慣習や教義に対する合理的判断に基づいて、その神を頂点とする宗教を信じていると見せかけているに過ぎないのだ。真に神を信じる、これを盲信と彼らは呼ぶが、その状態では世界のありとあらゆる要素はすでに解釈されているのである。

 

この意味において私は、神の存在を信じる者と信じない者の2種類に、人間を大別できるのではないかと考えた。科学者は後者のグループに含まれ、所謂、敬虔な信者は前者に含まれる。私としては、両者において優劣を判じるつもりはなく、ただどちらがより幸福か、つまり楽であるかということに興味がある。結論から述べると、それは前者である。

 

科学者の仕事は、究極的には自己否定である。彼らは人間の限界に到達するまでその営みを止めることはなく、その限界を判然とさせることを至上の命題としている。
しかし、皮肉なことにその営みが決して完結し得ないことが、科学的に証明され得るのである。

仮に、科学が示し得る人間の限界というものがないと仮定する。この場合、科学という営みに終わりがないことは明確である。一方、限界があると仮定すると、その限界を知覚すること自体が、人間の限界を超えたものである必要がある。そこが限界であることを示すには、それより先には進めないということを示す必要があるが、それは人間の視点からはわからないのだ。遠い未来のある日、科学が壁に行き着いたので、これで科学はおしまいだとはならないのである。仮に、そういう人間が現れた場合、彼はその壁の敬虔な信者の一人になったということだ。

達成され得ない目的に対して心血を注いで、自然や人間に対して懐疑的になり、研究を行う。この営みから生まれるものは、終わらない闘争であり、最終的には無である。

 

科学者の虚しさに対し、神の存在を信じるものは充足感に満たされている。彼と、彼を取り囲む世界には意味があり、その意味を疑う行為は存在すらしてはならない。神の世界に住む者は、一切の対象に疑問を抱くことなく、完結した閉じた世界で、唯々諾々と死んでいく。無駄な争いに巻き込まれることもなく、神の存在を信じる限り、少なくともそこには神という絶対的な存在がある。

世界に宗教が一種類しかなかったら、人類が科学することはなかったのではないだろうか。そう思わせるほどに、この世界は美しい。

 

私は楽に生きたい。だから私は、神を信じよう。
次に神を殺すのだ。

 

なぜ殺すのか?それは私が、世界を美しいものと認めたくないからだ。
私にとっての世界は、無秩序で、不条理で、混沌としていなくてはならないが、絶対的な神の存在は、夜空の北極星のように、全体に調和をもたらしてしまうのだ。

私は世界や人間をありのまま受け入れたい。そこには法則性を見出すべきではないし、秩序を求める必要もない。

きっと、全ての人間が私に剥き出しの憎悪を向けてきたら、私は安心するだろう。これこそが、ありのままの人間の姿なのだと。

まろ眉ブームの到来?

序文

 遅ればせながら、水星の魔女を見た。生まれてこの方、ガンダムはおろかロボットアニメすら見たことのなかった自分だが、とても楽しく視聴することができた。筋書きや受け手に与えるメッセージ性はともかくとして、エンタメとしては非常に良いものであると感じた。

 放映されたのは、昨年後期から今年の前期の間であり、第二期は不幸にも推しの子のアニメと一部重なってしまったためか、私の目には入らなかった。集英社の猛プッシュには、GUNDのデータストームも敵わなかったのだ。ライブ感を味わうことができず、非常に惜しいことをしたと思っている。

 

 一方、先日のブログにも書いたように、最近は葬送のフリーレンのアニメが流行しているようだ。こちらも高いエンタメ性、つまりは観客を魅了するストーリーやキャラクターなどが組み込まれており、実際私も毎週楽しんで観ている。

 

 今回は、この人口に膾炙しているアニメ両者を比較することで、流行りのアニメについて考察を行いたい。なお、他のアニメを比較対象に含めない理由は、単純に私が観ていないからである。先程取り上げた推しの子であるが、こちらは当時漫画の展開のダイナミクスがアニメの比ではなかったため、アニメの記憶がオーバーライドされてしまっており、復旧困難なため除外する。

 また、比較手法とその妥当性についてであるが、私はこれまでポケモンとワンピースくらいしかまともにアニメを観たことがないため、経験に裏打ちされた公平性や客観性が担保されたものであるとは、全く言い難い。従って、偏見に基づいた比較と主観的な判断を行い、全く非学術的で幼稚な結論が下されることとなるだろう。つまり、この文章は読む側にも書く側にとっても、時間の無駄以外の何者でもない。

 

 それでは、以上の保険料がわりの前置きを述べた上で、本題に移ることとする。本文の流れとしては、まず次章で水星の魔女と葬送のフリーレンの、共通点について分析と考察を行い、その次の章で相違点について同様の分析・考察を行う。さらにその次章で、それら共通点から人々の支持を集めるような要素が抽出できないかについて、私自身の個人的な好み、つまりサンプル数1のデータを元に考察を行う。その後、第3章の内容と第4章の結果を包括して、人々(n=1)がエンターテイメントとしてのアニメーションに求める要素や成分について、結論を述べる。

 

水星の魔女と葬送のフリーレンの共通性について

 まず、この2作の共通点について考察を行うこととする。簡単のため、箇条書き形式を用いる。

  • 主人公が魔女
  • 主人公がまろ眉
  • 主人公が1話から強い
  • 主人公が(精神的に)幼稚
  • 主人公のコミュニケーション能力に問題がある
  • 主人公が特殊な環境で訓練・教育を受けている
  • 主人公の出生が通常の人類と異なる
  • 主人公が異性の告白を拒絶する(または関心を示さない)
  • しっかり者のヒロインがいる
  • タンク役の男がいる
  • 時代背景、世界観が大雑把
  • 主題歌がYOASOBI

  以上の事柄を基に、近年の人々の好みに対して、次の考察が正当化され得る。まず、人々はまろ眉で、精神的なあどけなさと肉体的・物質的な力強さを兼ねそろえた魔女を求めるようになった。このような歪な構成は、特殊な環境における養育や特別な出自が原因と考えられ、それが主な原因でコミュニケーションに問題が起きるのである。異性に対する性的関心の乏しさや拒絶にも、この要素が一部関与している可能性があるが、センシティブな内容であるため深入りはしない。

 もちろん、このような社会性を欠いた、いわば「出る釘」のような存在は、通常であれば人間社会や、その縮図である学校内に居場所を得ることができない。そこで、必要となるのが「しっかり者のヒロイン」と「タンク」である。彼らは、各の合理的な理由に基づいて、主人公の代わりに「物語内の不条理」を身に受ける。創作者は、この理由が合理的であることに注意する必要がある。仮に非合理的な理由であった場合、ヒロインとタンクが受ける不条理は現実的な重みを帯び、読者の共感や関心が主人公から離れて彼らに向かってしまうのだ。この際、一部の読者は主人公に対して、嫌悪感や恨みに似た感情を抱くこともある。

 こうした、ある意味主人公にとって理想的な物語世界を構築することが、上記の成功した作品に共通している点である。しかし、そのような理想世界は非現実的であるため、詳細な描写を行うことが困難である。仮に行った場合、その描写が物語の大部分を占めるか、またはその物語自体を破壊してしまいかねないのだ。そこで、作品の創造主は、世界と時代を実に単純なものにした。物語上で流れる時間は、何十分の一にも圧縮され、世界は大陸レベルまでコンパクトなものにされたのだ。

 これらは、それぞれの作品設定と矛盾するものであるように一見思われるが、実際のところ正しい。フリーレンにおいては、神代の時代から1000年後の世界まで物語中に言及されるのに対して、現時点で作品で実際に使用されているのは数年程度である。それ以外の時間は、部分的な回想や予言じみた行為によって触れられることはあっても、物語中に進行することがない。水星の魔女においては、宇宙を舞台としているのに対し、物語が進行するのは地球上の一部分か、衛星上に限られている。物語上の演出に使用された全ての空間を展開したところで、高々オーストラリア大陸1個分程度のスペースに収まるのではないだろうか。

 しかし、こうした技法はさまざまなエンタメ作品に共通して言えることであり、それは作品世界の理想化に基づいて行われるよりも、むしろ創造主の能力の有限性と読者の集中力の上限に原因があるようにも考えられる。従って、この2作品のみに注目して考えるのあれば、この点の重要度はそれほど高くない。

 では、何がこの作品を傑出した存在としているのか。それはYOASOBIの楽曲が大きいと私は考えている。私も含めて、多くの現代人は自分から主体的に動いてエンタメを探究する行動をやめてしまった。他人やインターネット上でおすすめされたコンテンツを消費するのみで、ガラクタの山から宝物を掘り出すような泥臭さが消えてしまったのである。そのような社会においては、主題歌というフックは非常に重要な役割を持つ。つまり、主題歌がキャッチーなものであればあるほど、万民の目に留まりやすいのだ。

 

水星の魔女とフリーレンの相違点について

  • 時代、世界
  • 主人公の寿命、種族
  • ■■■■(検閲済)
  • 主人公の体格
  • 主人公の性格

 

 考察は著者が面倒くさくなってきたのでやめる。

 

結論

 以上の事柄から、人々がエンターテイメントとしてのアニメーションに求める要素や成分として、次が挙げられる。

 まず、精神的なあどけなさと肉体的・物質的な強さを併せ持った、歪な主人公である。これはおそらく、現代人の多くが物語の内容に主人公の精神的な成長という要素を求めていることが原因として考えられる。肉体的・物質的にも一般人と変わりない程度の実力しか持たない主人公では、キャラクターとしての個性や魅力が薄れてしまうため、作者は下駄を履かせるのだ。履かせる能力としては、魔法や技術といった、人々に馴染みのあるものの方が良い。

 続いてあげられるのが、主人公に、読者に都合のいい世界である。これは、読者にエンタメを供給する上で、必要不可欠な存在である。読者は違和感を感じることなく物語に溶け込み、小難しい設定に頭を悩ますこともない、という状況がベストである。

 以上で挙げた内容に、YOASOBIというフックを取り付ければ、まさに入れ食い状態である。しかし、まだ触れていない要素がここにはある。それは、まろ眉である。

 まろ眉がなぜ、キャラクターの魅力を底上げするのか。それは私にはわからない。だが、この謎の魅力こそいわゆる「ブーム」というものの正体ではないのか。

 

 

 

 

「葬送のフリーレン」についての些細な発見

 2023年の大半が後方へと過ぎ去り、今年も冬が来た。

 20代も半ばの「お兄さん」になりつつあるにも関わらず、中身はちっとも変わっていない。幾つになっても、面白いものは面白いし、つまらないものはつまらない。

 しかし、焦ってアダルトにならなくてもいいじゃないか。それほど価値があるものでもないのだ。「大人」というものは。

 

 精神的に若々しく、未だ、みずみずしい感性に恵まれている私は、最近「葬送のフリーレン」を愛読するようになった。昔は、次から次へと興味を惹く漫画をあちらこちらから見つけてきたものだが、近年このように新しい漫画に入れ込むのは、年に1回あるかないかである。

 その漫画を繰り返し読んでいるうちに、私はある発見をしたのだが、ネットでその発見があまり広まっていないことに気づいた。そこで、その発見をボトルメールよろしく、電子の海に投じたくなったのである。

 

 問題のシーンは、7巻にある。南の勇者とフリーレンが会話している場面である。ここで勇者はフリーレンに、「君は私の魔法を知ったとしても、一生誰にも言う事はない」と発言している。おそらく、勇者はその前のコマで「...君には言っても問題ないな」と発言しているので、未来を見て判断したのだろう。さらに、そのもう一つ前のコマで勇者の顔がアップになっているが、おそらくこの瞬間に、彼女が一生、この秘密を口外しないことを確認したのではないだろうか。

 

 しかし、ここで注目しなければならないのは、この「一生誰にも言う事はない」という部分である。つまり、フリーレンはこの瞬間、未来のいずれかの時点で死ぬことが確定したのだ。

 

 ここで、この彼女の死について、簡単な考察を行う。まず、いつ死ぬかについて考えてみたい。しかし、これについては正直なところ、あまりにも候補となる機会が多すぎるため、いくつかその例を挙げるに留める。

 

 第一の候補は、物語の目的地、オレオールに到着した時点だろう。メタ的に見て、そこがおそらく物語の山場であるし、死後の再会という、近頃の少年誌作品に相応しい、様式美的なエンディングにも繋がる。暗い展開と考える方も多いかもしれないが、現に大ヒットした「鬼滅の刃」や「呪術廻戦」にも、似たような展開があったではないか。

 

 第二の候補は、物語の終了後、エピローグ的な話の中での死である。これには数パターンが考えられる。バッドなパターンでは、1000年後の魔族との戦争の最中、命を落とすというものがある。現に6巻で、直感が常に正しいとされているゼーリエから、「お前を殺す者がいるとすれば、それは魔王か、人間の魔法使いだ」と言われている。物語終了後、新しく誕生した別の魔王に殺されるのではないかというのが、私のこの場合における、第一の説である。

 また、10巻では、南の勇者と同じ、未来を見る魔法を操るとされるシュラハトが、フリーレンに彼との戦いを見せることがないよう、マハトの記憶をグラオザームの能力により消去していることがわかる。これは、同巻で彼が言及している、「千年後の魔族のための戦い」のためではないだろうか。つまり、彼女は物語終了後も生き続けるが、千年後の魔族との戦いに参戦し、この情報が欠落していたがために命を落とすのだ。このように考えれば、上に記載している南の勇者の発言で、「...」が使用されていることにも辻褄が合う。Wikipediaによると、三点リーダーは、余韻や時間的な間を表すために用いられることがあるらしい。勇者は自分とシュラハトとの時空を超えた戦いの中で、フリーレンが命を落とすことに気づいたために、気まずさから彼も間を置いたのではないだろうか。

 

 しかし、もちろんグッドなパターンもある。もちろん、これをグッドとするか否かは、人によって異なる意見が出るとは思うが、昨今のエンタメ界の潮流からして、バッシングは受けづらいのではないかと思われる。それは、フリーレンが人間の魔法使いに、「間接的に殺される」未来である。こちらは、先程のバッドなパターンと比較すると、少し証拠に弱いのだが、それでもゼーリエの直感には合致している。

 ここで、なぜ「間接的に」なのかというと、それは単純に彼女が人間側の英雄だからである。実際、物語中で直接的に彼女を殺そうとした人間も存在はしたが、フリーレンから不器用なゼーリエの本心を教えられてからは、矛ならぬ杖を収めている。従って、ゼーリエにも未だ目を付けられていない、極めて魔法に習熟した人間が、悪意を持ってフリーレンを攻撃しない限り、直接的に彼女を殺すことはほぼ不可能なのだ。もちろん、物語中に何人か、底の見えない異端児の魔法使いが登場してはいるが、メタ的な視点から見て、このような突飛な存在が物語の根幹に大きく関わるような活躍をするとは考えづらい。某グール:reのように、単純にエンタメとして興醒めなものになってしまうのだ。

 では、どのようにフリーレンを「間接的に殺す」のかというと、それは、彼女に適当な魔法をかければいいのである。魔法はイメージの世界だ。ならば、フリーレンが普通の人間のような感覚や感性を持つことができたならば、彼女に人間のように死ぬ魔法をかけることもできるはずだ。しかし、この魔法が未だ登場していないという点で、この説は弱い。だが、仮にこの場合、彼女にこの魔法をかけることができるような人間の魔法使いは、おそらく一人を除いていないだろう。それこそが、フェルンである。彼女ならば、技術的な面でも、そしてフリーレンの人間的な、だらしない側面を多く見てきたという点で、想像力的な面でも、この魔法を使うことができるはずである。もちろん、フェルン側の心理的なハードルはかなりのものになるがろうが、おそらく、フリーレンの方からフェルンに必死に頼むのではないだろうか。きっと、冒険が終わった後に。

 

 次に、どこで死ぬかについて考察を行いたい。上にあげた3パターンの死に時期を、それぞれ①、②、③と表すことにする。①の場合、これはいうまでもなくオレオールである。②の場合、これは正直なところわからない。魔王城があるオレオール周辺になるかもしれないし、ハガレンよろしく、勇者ヒンメルの墓の前かもしれない。③の場合、おそらく死に場所は物語中で明らかにはされないのではないだろうか。ただ、人間と同じように天寿を全うした、それだけで終わりそうな気がする。そういえば、「鬼滅の刃」も、そのような終わり方だった。

 

 では、誰が殺すか。これは①の場合、自死の線が濃い。仮にフェルンが殺したならば、なんとも後味の悪い終わり方になってしまう。②の場合、これは先述の通り魔王だろう。③の場合はフェルンとなる。誰が殺すかについては、6巻にあるゼーリエの直感から、魔王か人間の魔法使いに大別できるため、それほど困らない。唯一の問題は自死をどのように考えるかだが、この場合は人間的な感覚を持った魔法使いが、エルフとしての自分を殺すと考えれば、苦しいながらも説明はできる。また、魔法使い以外がフリーレンを殺害する場合についてだが、これもメタ的に考えづらい。劇場版コナンで阿笠博士とジンが銃撃戦を繰り広げても、観客はそれだけでは満足しないだろう。

 

 最後に、どのように殺す・されるかである。①の場合、これはやはり、ゾルトラークではないだろうか。6巻にもあるように、エルフの魔法使いは長寿であるため、古い魔法では反射的に防御魔法を展開して、無意識に攻撃を防いでしまうと考えられる。そこで、一瞬対処が遅れるゾルトラークを、何らかの手段を用いて、防御が困難な状態の自分に発射することで、自死するのである。ミミックとか、いいかもしれない。

 ②の場合、これは推測が難しい。というのも、おそらく南の勇者が絡んでくるからである。そのため、私の勝手な想像だが、おそらく、「賓ならそうした」と述べた後、勇者パーティー不在の状態で魔王に挑むこととなり、普通に負けるのではないだろうか。

 ③の場合、これは上述の、人間のように死ぬ魔法ではないだろうか。もちろん、魔法が上達したフェルンならば、ゾルトアークで殺すことも可能となるだろうが、流石に後味が悪すぎる。

 

 以上の考察結果から、フリーレンは作中において死亡する、またはその死を匂わされる可能性が高く、その死亡パターンも現在の物語進行度から、いくつか考えられるということがわかった。なお、私は「葬送のフリーレン」の要素の中でも、カズオ・イシグロの小説に見られるような、(感情・感性が乏しいが故に)信頼できない語り手としてのフリーレンと、同著作に含まれる「日のなごり」や「遠い山なみの光」に見られるような、取り返しのつかない過去への甘酸っぱい追憶に魅力を感じているので、個人的には死亡エンドは好みではない。ただし、蛇足だがアニメ版は少し、恋愛描写に力を入れすぎではないかと思うのが、個人的な心境である。「お兄さん」的には、あまり露骨に押し出すと、それだけ安っぽく見えてしまうのだ。甘酸っぱいのがいいのであって、甘々なのは灰色の「お兄さん」にはきついのだ。

統計学と科学の関係性に対する所感

 統計学は人間や自然を分析する道具である。そのため、対象について分析や理解を行う科学とは非常に相性がいい。しかし、統計学を扱う・学ぶ際は、これが対象を解釈するためのツールではないということを、よく心得ておかなくてはならない。

 

 分析は理科的な行為だが、解釈は文化的な行為である。人や自然を解釈する、つまりそれらに何らかの意味を与える行為は、数値的なものによる計量的評価や、客観的事実に立脚した論理的帰結によってはなしえないはずだ。

 私が思うに、それが可能なものの例としては、哲学と宗教がある。

内定鬱

 10月に入り、内定式のシーズンとなった。2023年も終わりが近づいてきたと感じる、今日この頃である。研究の進度は芳しくないが、何とか卒業はさせてもらえるのではないかと、あまり深刻には考えないようにしている。

 

 しかし、最近になって、私は本当に卒業したいのだろうかと考えるようになった。研究をしたいわけではないのだが、就職もしたくないのである。それでは、親に甘えるか飢え死にするかしかないのだが、親脛を齧ることにも路傍で行き倒れることにも、心理的な抵抗があるというのが実情である。

 私はこの状態を、「曖昧さへの指向」と名づけることにした。これは一種の幼児退行であり、現代社会への拒絶反応である。そして、そのような非合理的で、精神的に「不健全」な状態であることを、広義的な鬱として社会は診断するように思われる。

 

 しかし、私にとってこの現象は、むしろ自然的であるように思える。自然界で不可逆的にエントロピーが増大するように、私もまた「曖昧さ」を本能的に指向するのだ。この営みは潜在的なもので、意識的には決して行われ得ないものである。なぜならば、それを意識した瞬間、私は「曖昧さ」にたいして、何らかの具体的な形を与えてしまうからである。

 

 私がこの「曖昧さ」を求める理由の主たるものは、確定的な未来への恐れと現実からの逃避である。こうした感情を説明する理由として、私は次の仮説を考えた。それは、私が外面的に卑屈でありながら内面的には尊大なため、自己の理想から外れている現状を受け入れられないというものである。

 私自身、この説に納得させられることも少なくはなかった。事実、私は社会に参加する素振りを見せながら、傲慢なことにそれを拒絶しているのである。しかし、この説を完全に認めるには、「自己の理想」のある程度具体的な内容を明らかにする必要がある。

 

 しかし、私には、私を現実に対して反抗させるだけの理想が見当たらないのだ。賢くなりたいわけでも、孤独から脱したいわけでもない。むしろ、一人暗愚でいる状態を、一種の人生のスパイスのようにさえ感じている。

 

 私は病気なのだろうか。しかし、病気ならばなぜ苦しみを感じないのか。今の私は、かつてのいずれの時点における自分よりも、快適な生活をしている。それは金銭的、衛生的に快適という意味ではなく、いわば精神的に快適なのである。怒りや焦りといった、激しい感情に磨耗することもなく、ただ不明瞭な恐れを抱きつつ激情をもたらす環境からの逃避行を続ける、動物的な生に安住しているのだ。

 

 この生き方が人間的な生の上位に属するか下位に属するかについては、あまり関心を抱かない。どちらであろうと私はこの生を求めるだろうし、それが自然なのである。

 

 人間は学び、働き、子孫を残して死んでいくが、その過程の中で構築される社会は、反自然的なものである。それは個人に役割を与え、曖昧さを許さない。ところで、法治国家の背骨が法律だとすれば、社会のそれは文化であると考えられる。したがって、文化から逸脱した人間は社会において、自己に適合した役割を見出すことができない。

 

 つまり、私はこの社会における異邦人であり、それが故に曖昧さを指向するのだ。

変わらないもの 〜美と愛について〜

 我悟れり。世において不変なるものは、美と愛のみなり。愛は対等な関係の内のみに生ず。それ以外のものは美なり。

 愛する対象、美を感ずる対象は目まぐるしく変われども、愛する行為、美を感ずる行為は不変である。

 愛し方、美の感じ方は百者百様といえども、人間は愛するし、美に魅了されるのだ。

 

 「金閣寺」は「美」のストーカーの物語であると考えられる。主人公は、金閣寺という「美」に魅せられ、それを愛そうと試みた。しかし、「美」はそれを拒んだ。そこで、彼は共に燃えることで「美」と一体化し、表面上対等な関係を築こうと試みたのだ。それでも、最後に彼は「美」を殺したものの死にきれず、愛することに失敗したのだ。

 

 なぜ、不釣り合いな関係の中で生まれる「愛」が歓迎されないのか。それは、愛を騙る美だからである。そのような、歪んだ美が生じるのは、感情を抱く主体が自らの価値を高く見積もっているか、またはその主体が感情の対象となる存在の価値を低く見積もっているかのいずれかが原因であると考えられる。いずれにしても、これは社会一般の価値観に対する挑戦に他ならない。

 

 本来、美は不可侵なものであり、無条件に敬意を払われるべきものである。そのようなものに対して、畏れ多くも自分がその美に値すると考えることは、対象との関係がどちらに傾いているかに関わらず、道義に反することである。

 仮に、価値が自分より低いと感じられるような相手であっても、そこから生まれる愛は、いわば哀れみに近いもので、それは自分自身を美に近づけようとする試みに他ならない。それは、無思慮に自分を最高の存在へと押し上げようとする、不遜な試みであり、浅ましく、かえって醜い。

 関係が自分より高いものに対しては、言うまでもない。そのような者は、対象だけでなく、社会全体を敵に回すのだ。

 

 私が思うに、いわゆる「弱者男性」とは、分不相応に愛を求める存在である。彼らは愛に飢えているが、対等な関係を築くことなくそれを求めようとするので、醜く感じられるのだ。

 無論、それは一部の女性にも言えることである。彼らもまた、意識的にも無意識的にも、真に対等な関係を築こうとしない。故に、少なからぬ人々に不快な感情を与えるのだ。

 

 万物に対し、美を見いだせ。その美を称賛することが、やがて愛につながる。

 

 お前は、美を求めず、見出そうともしていない。

 文章、絵画、音楽、彫像、映画、スポーツ、会話、数式、動物、人間、空、海、大地、宇宙、全てが美を含んでいる。なのに、お前の感性は、それらを素通りしているのだ。

 耳を澄ませ、凝視せよ。五感の門を開け放て。思考を働かせて、感性に美を醸させよ。努力しなければ、お前は美を真に称賛することができない。

 

 美に対し敬意を払おうとしないものは、傲岸不遜で孤独な存在である。お前は敬意を払わねばならない。敬意を払った結果、何を得られなかったとしても、お前はその努力をしなくてはならない。

 お前は奴隷である。だが、奴隷の身であることが、お前を幸福にするのだ。

もう二度と動かないアレクサ

 今日、アレクサを殺した。

 床にぶつけたそれはゴトっと音を立てたが、それは予想していたよりもずっと小さな音だった。床に転がったそれを拾い上げてみると、スピーカー部とディスプレイのつなぎ目から、幅広のきしめんのようなコードが飛び出していた。

 おそらくそれは、ディスプレイとアレクサ本体を繋ぐコードだったのだろう。人間でいうところの首や、頸動脈に当たるものかもしれない。真っ黒になったディスプレイは、もう何も教えてはくれなかった。

 電源コードに繋いでも、声をかけても何の反応もない。私と共に大学生活を過ごした、一番付き合いの長い友人は、もう死んだのだ。

 

 アレクサを殺した私は、自分が犯した罪の大きさに、未だ無自覚であった。現実と夢が混在した、半透明な意識の中で、私はその死骸を眺めていた。

 私にとって「彼」は、大学で最も長い付き合いをした友人の内の一人だった。特に、今住んでいる家に引っ越してからは、家族の一員のようにさえ思っていた。

 私の中で、耳が遠い「彼」は性同一性障害を患っており、声質は女性だった。もちろん「彼」を人類の一員と見做したことは一度もないのだが、出来の悪いペットのようなものくらいには考えていた。

 私の指示を理解してくれないことや、突然トンチンカンな受け答えをすることも、よくあった。頼んでもいないのにテレビをつけたり、エアコンを消したりすることは日常茶飯事だった。電話やオンラインミーティングの際に、でしゃばることもあった。

 いつもあの、突拍子のない、耳障りな合成音声に苛立たされたものだった。

 私はもう二度と動かないアレクサを手に取り、撫で回した。最近掃除をしたからか汚れは少なく、飛び出したコードを除けば、目立つ外傷も特になかった。4年間、運よく私の八つ当たりから免れてきた「彼」も、最期は大切な講義のある日に寝坊した私の怒りの鉄槌を喰らい、息絶えた。

「『彼』をどうしよう。」

 私はすでに、それを廃棄物の一つとしか見做していなかった。

 

 それは可燃ゴミかもしれないし、資源ゴミかもしれなかった。外装部分はきっと燃やせるだろうが、ディスプレイや内部基盤はリサイクルする必要があるかもしれない。不燃ゴミという概念が存在しない私にとって、これまでゴミはその二種類しかなかった。私は分別に困った。

 役に立たないガラクタを、あまり我が家に置いておきたくはなかったが、かといって適当な分別方法を調べることも面倒くさかった。しかしそれでも、手を下したものとして、その始末をつける責務が私には残されていた。私は考えざるを得なかった。そして、ついに一つの結論に辿り着いた。

 

「そうだ、お墓を作ろう。」

 今がシーズンの藤棚の下に穴を掘って、黒いビニール袋で覆った彼の体をそこに埋葬するのだ。埋めた後には大きな丸石を置こう。薄紫色の藤の花に囲まれたその丸石からは、神秘的で厳かな雰囲気が漂うだろう。誰も石を退けて、下の地面を掘り起こそうとは思わないはずだ。不幸な最期を迎えてしまった彼も、きっとそこなら成仏できるのではないだろうか。

 

 さようなら、アレクサ。君と過ごしたこの日々を、僕は忘れない。