インドカレーとコーヒーと

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まろ眉ブームの到来?

序文

 遅ればせながら、水星の魔女を見た。生まれてこの方、ガンダムはおろかロボットアニメすら見たことのなかった自分だが、とても楽しく視聴することができた。筋書きや受け手に与えるメッセージ性はともかくとして、エンタメとしては非常に良いものであると感じた。

 放映されたのは、昨年後期から今年の前期の間であり、第二期は不幸にも推しの子のアニメと一部重なってしまったためか、私の目には入らなかった。集英社の猛プッシュには、GUNDのデータストームも敵わなかったのだ。ライブ感を味わうことができず、非常に惜しいことをしたと思っている。

 

 一方、先日のブログにも書いたように、最近は葬送のフリーレンのアニメが流行しているようだ。こちらも高いエンタメ性、つまりは観客を魅了するストーリーやキャラクターなどが組み込まれており、実際私も毎週楽しんで観ている。

 

 今回は、この人口に膾炙しているアニメ両者を比較することで、流行りのアニメについて考察を行いたい。なお、他のアニメを比較対象に含めない理由は、単純に私が観ていないからである。先程取り上げた推しの子であるが、こちらは当時漫画の展開のダイナミクスがアニメの比ではなかったため、アニメの記憶がオーバーライドされてしまっており、復旧困難なため除外する。

 また、比較手法とその妥当性についてであるが、私はこれまでポケモンとワンピースくらいしかまともにアニメを観たことがないため、経験に裏打ちされた公平性や客観性が担保されたものであるとは、全く言い難い。従って、偏見に基づいた比較と主観的な判断を行い、全く非学術的で幼稚な結論が下されることとなるだろう。つまり、この文章は読む側にも書く側にとっても、時間の無駄以外の何者でもない。

 

 それでは、以上の保険料がわりの前置きを述べた上で、本題に移ることとする。本文の流れとしては、まず次章で水星の魔女と葬送のフリーレンの、共通点について分析と考察を行い、その次の章で相違点について同様の分析・考察を行う。さらにその次章で、それら共通点から人々の支持を集めるような要素が抽出できないかについて、私自身の個人的な好み、つまりサンプル数1のデータを元に考察を行う。その後、第3章の内容と第4章の結果を包括して、人々(n=1)がエンターテイメントとしてのアニメーションに求める要素や成分について、結論を述べる。

 

水星の魔女と葬送のフリーレンの共通性について

 まず、この2作の共通点について考察を行うこととする。簡単のため、箇条書き形式を用いる。

  • 主人公が魔女
  • 主人公がまろ眉
  • 主人公が1話から強い
  • 主人公が(精神的に)幼稚
  • 主人公のコミュニケーション能力に問題がある
  • 主人公が特殊な環境で訓練・教育を受けている
  • 主人公の出生が通常の人類と異なる
  • 主人公が異性の告白を拒絶する(または関心を示さない)
  • しっかり者のヒロインがいる
  • タンク役の男がいる
  • 時代背景、世界観が大雑把
  • 主題歌がYOASOBI

  以上の事柄を基に、近年の人々の好みに対して、次の考察が正当化され得る。まず、人々はまろ眉で、精神的なあどけなさと肉体的・物質的な力強さを兼ねそろえた魔女を求めるようになった。このような歪な構成は、特殊な環境における養育や特別な出自が原因と考えられ、それが主な原因でコミュニケーションに問題が起きるのである。異性に対する性的関心の乏しさや拒絶にも、この要素が一部関与している可能性があるが、センシティブな内容であるため深入りはしない。

 もちろん、このような社会性を欠いた、いわば「出る釘」のような存在は、通常であれば人間社会や、その縮図である学校内に居場所を得ることができない。そこで、必要となるのが「しっかり者のヒロイン」と「タンク」である。彼らは、各の合理的な理由に基づいて、主人公の代わりに「物語内の不条理」を身に受ける。創作者は、この理由が合理的であることに注意する必要がある。仮に非合理的な理由であった場合、ヒロインとタンクが受ける不条理は現実的な重みを帯び、読者の共感や関心が主人公から離れて彼らに向かってしまうのだ。この際、一部の読者は主人公に対して、嫌悪感や恨みに似た感情を抱くこともある。

 こうした、ある意味主人公にとって理想的な物語世界を構築することが、上記の成功した作品に共通している点である。しかし、そのような理想世界は非現実的であるため、詳細な描写を行うことが困難である。仮に行った場合、その描写が物語の大部分を占めるか、またはその物語自体を破壊してしまいかねないのだ。そこで、作品の創造主は、世界と時代を実に単純なものにした。物語上で流れる時間は、何十分の一にも圧縮され、世界は大陸レベルまでコンパクトなものにされたのだ。

 これらは、それぞれの作品設定と矛盾するものであるように一見思われるが、実際のところ正しい。フリーレンにおいては、神代の時代から1000年後の世界まで物語中に言及されるのに対して、現時点で作品で実際に使用されているのは数年程度である。それ以外の時間は、部分的な回想や予言じみた行為によって触れられることはあっても、物語中に進行することがない。水星の魔女においては、宇宙を舞台としているのに対し、物語が進行するのは地球上の一部分か、衛星上に限られている。物語上の演出に使用された全ての空間を展開したところで、高々オーストラリア大陸1個分程度のスペースに収まるのではないだろうか。

 しかし、こうした技法はさまざまなエンタメ作品に共通して言えることであり、それは作品世界の理想化に基づいて行われるよりも、むしろ創造主の能力の有限性と読者の集中力の上限に原因があるようにも考えられる。従って、この2作品のみに注目して考えるのあれば、この点の重要度はそれほど高くない。

 では、何がこの作品を傑出した存在としているのか。それはYOASOBIの楽曲が大きいと私は考えている。私も含めて、多くの現代人は自分から主体的に動いてエンタメを探究する行動をやめてしまった。他人やインターネット上でおすすめされたコンテンツを消費するのみで、ガラクタの山から宝物を掘り出すような泥臭さが消えてしまったのである。そのような社会においては、主題歌というフックは非常に重要な役割を持つ。つまり、主題歌がキャッチーなものであればあるほど、万民の目に留まりやすいのだ。

 

水星の魔女とフリーレンの相違点について

  • 時代、世界
  • 主人公の寿命、種族
  • ■■■■(検閲済)
  • 主人公の体格
  • 主人公の性格

 

 考察は著者が面倒くさくなってきたのでやめる。

 

結論

 以上の事柄から、人々がエンターテイメントとしてのアニメーションに求める要素や成分として、次が挙げられる。

 まず、精神的なあどけなさと肉体的・物質的な強さを併せ持った、歪な主人公である。これはおそらく、現代人の多くが物語の内容に主人公の精神的な成長という要素を求めていることが原因として考えられる。肉体的・物質的にも一般人と変わりない程度の実力しか持たない主人公では、キャラクターとしての個性や魅力が薄れてしまうため、作者は下駄を履かせるのだ。履かせる能力としては、魔法や技術といった、人々に馴染みのあるものの方が良い。

 続いてあげられるのが、主人公に、読者に都合のいい世界である。これは、読者にエンタメを供給する上で、必要不可欠な存在である。読者は違和感を感じることなく物語に溶け込み、小難しい設定に頭を悩ますこともない、という状況がベストである。

 以上で挙げた内容に、YOASOBIというフックを取り付ければ、まさに入れ食い状態である。しかし、まだ触れていない要素がここにはある。それは、まろ眉である。

 まろ眉がなぜ、キャラクターの魅力を底上げするのか。それは私にはわからない。だが、この謎の魅力こそいわゆる「ブーム」というものの正体ではないのか。