インドカレーとコーヒーと

書きたい時に書く。

生卵

 生卵を割ることは、世界で最もグロテスクな行為かもしれない。

 

 卵型の顔が美形を定義づける要素の一つとしてよく取り上げられるように、卵の形は世間一般からも美しい形として認識されている。

その一点の曇りもなく白く、滑らかで美しい殻を無惨にも破壊して、無色無臭のゲル状の液体と、それらに反して鮮烈なオレンジ色を持つ不安定な球体を、ボトリと取り出すのである。

その、何か生命の秘密のようなものを白日の下に晒すような行為を、グロテスクと言わずして何というだろうか。

また、このような破壊と暴露は、ありとあらゆる残虐的な行動を象徴しているとさえ考えられないだろうか。

残酷の対義語として慈愛がある。この単語は、慈しみを注いで可愛がる感情のことを指しているようだが、これはまさに生卵を抱擁する親鶏の態度そのものではないか。

もちろん、鶏は本能に従っているに過ぎないだろう。しかし、それを見て人間は何かしらの母性を感じるものである。人間の立場から見て母性的であれば、それは母性的な行動と考えても差し支えないだろう。なぜなら、考える主体は人間だからである。

この母性的な営みのもとで守られるはずだった、美しい生卵を、私たちは日々破壊し、グロテスクな中身をかき混ぜ、醤油と一緒に啜っている。真に恐ろしいのは、この一連の行為の残酷性にほとんどの人が無自覚でいることである。

より理性的に生きるためには、私たちは生卵を断念するか、この無慈悲について自覚する必要があるのではないか。