インドカレーとコーヒーと

書きたい時に書く。

ニュー・レリジョン・プログラム

 クリスマスは如何に過ごされるべきだろうか。

 由緒正しきカトリック教徒たちのように、キリストへの思いを胸に抱きながら、一家団欒の時を我が家で過ごすべきだろうか。

 それとも、キリストとは縁もゆかりもない人々のように、酒・金・セックスで彩られた年に一度の祝祭を楽しむべきだろうか。

 キリストにも、酒・金・セックスにも縁のない私は、クリスマスをどう過ごすべきか悩んだ。

 

 まず、大掃除をすることにした。そこで、山下達郎のクリスマス・イブやベートーヴェンの第九を聞きながら、今年度のゼミや講義の資料をまとめた。床には掃除機をかけ、トイレをピカピカに磨き、洗面所に溜まっていた洗濯物を処理した。

 掃除をしたら腹が減ったので、食事をすることにした。スーパーに買い物に行くと、引き取り手のいなかった鶏もも肉が半額引きにされていた。私は敢えて買わない決断をした。信念とプライドがそうさせたのである。

 

 

 なぜ日本の人々はクリスマスにチキンを食べるのだろう。七面鳥の代わりだろうか。それとも、ケンタッキーのせいだろうか。どちらでも構わない。真の疑問は、クリスマスになぜチキンや寿司、プレゼントのような、美食や高級品が消費されるのかという点にある。

 

 

 クリスマス、クリスマスイブはキリストの誕生日である。2日に跨っている理由は、キリストが24日の深夜に産まれたからである。そして、誕生日は祝うべきものである。したがって、クリスマス・クリスマスイブは美食や贈り物をもって祝われるべきである。この論理にはいくつかの飛躍が存在している。

 

 まず第一に、日本において一般的に誕生日において祝われるべき対象は、誕生日を迎える本人であるという点が挙げられる。

もちろん、キリスト教文化圏における誕生日の存在意義が我々のそれとは異なっている可能性や、イエス・キリストを我々世俗の人間と同列に見なすこと自体が誤った考え方である可能性も否定できない。しかし、そういったキリスト教的価値観が、我々日本人の間に浸透しているとは考えづらい。したがって、我々はクリスマスという棚ぼた、あるいは災害を、無条件に受容してしまっていると考えられないだろうか。

この人々に受容を求める存在が何であるかについて、私は興味がない。そして、日本経済にかかわる者として、人々のクリスマスシーズンの浪費のおかげで日経平均が安定し困ることは何もない。

しかし、私はその無条件の受容を拒否したい衝動に駆られた。「人は何か目的を持って行動するべきである」という、私の信念を貫くためである。この信念は、私にとっての教義であり、人生の根幹をなすものである。

 

 次に、クリスマスを祝う前提条件として美食や贈り物を仮定している点が挙げられる。確かにどの文化圏においても、祝い事には美食や贈り物が付き物である。しかし、豪華すぎる食事や品物は返って人々の心を貧しくし、高貴で慎ましい心と質素で健康的な生活を人々から剥奪するのではないだろうか。聖者であるキリストの誕生日に、そのような振る舞いはふさわしいといえるのだろうか。

私は特別金持ちになりたいわけではない。しかし、豊かな心を持ちながら長生きをしたいとは考えている。そして、そうした人生を送るに足るだけのお金を必要としている。クリスマスに美食・奢侈品を楽しむことは、これら両者から遠ざかることを意味しており、キリスト教精神とキリスト教的環境を持たない私にとって、この祭日は悪魔崇拝的な意味を持つものであるとさえ考えることができるのではないだろうか。

 

 

 どこまで失敗しようとも、私には信念がある。この信念さえ揺るがなければ、この人生も一概に無価値であるとは言えないのではないだろうか。特定の環境のもとで特定のルールに従って行動した個人の軌跡として、私の人生は人類史に眠る数多のサンプルの中の一つとして、誰かの(少なくとも私の)研究対象になり得るのではないだろうか。

 

 こうした信念を持つことを、揺るぎなく正当化するためには何が必要だろう。安ワインを飲みながら私は考えた。そして、信念の英訳がbeliefであることを思い出した。

beliefには複数の意味がある。信念。信用。そして信仰。アルコールが回った頭で私は閃いた。私の信念を教義とする宗教を開けば良いのである。

 

 ここに、ニュー・レリジョン・プログラムが開始した。