インドカレーとコーヒーと

書きたい時に書く。

大学院進学で得たもの

 2022年がもう終わる。本当に、あっという間だった。

 自分は結局、この一年で何を学んだのだろうか。去年の自分から、少しは進歩しただろうか。

 

 私はこの1年で少なからず鍛えられた気がするのだが、どうやら周りの意見は違うらしい。

 

 私が思うに、私がこの一年で得た主なものは、「ストレス耐性」と「鋼のメンタル」である。

 

 ストレス耐性は、卒業論文の発表から得た。発表の準備を当日の朝までに終わらせないといけないというストレス、発表してもあまり良い反応を得られないストレス、就活の成果物が発表当日ギリギリまで仕上がらないストレス、理系人材しか受け入れる余地のない社会に対するストレス。

 こうしたストレスが積もりに積もった結果、私はもはやストレスを苦役と感じなくなった。

 ストレスとは心のマラソンであり、筋トレである。生命の危機を身近に感じることの少ない現代社会において、多くの人々の心は肥太ってしまっている。安い食事と無料の娯楽が精神を堕落させ、人間から向上心と持続力を奪う。

 厄介なことに、この生活習慣病を外圧なしに治療することは困難である。なぜなら、この放漫な心を規制すべき理性そのものが、このような快楽を追求するようにできているからである。自ら進んで苦行を選ぶ理性、または快楽を避ける理性を持つものは、必然的に生存競争に敗れてしまうだろうから。こうした心を押さえ込むには、理性ではなく規範が必要となる。

 そして、この規範を心に課す時に、理性がそれに反発することからストレスが生じるのである。人類の驚くべき発明の一つである宗教は、規範に従うことを善とする絶対的価値観を個人の理性に植え付けることで、理性の抵抗なく心を抑圧することに成功した。これに比べて、合理性という教条を課した理性に従うのみの科学というものは、実に未熟で矮小なものではないか。

 今の私には宗教がないから、ただ生じるストレスを耐えることしかできない。しかし、これでは理性を抑圧する一方で理性的営みを行うことになるので非効率的であり、その内容は十分精錬されたものであるとは言い難い。そして、この不完全性が完全生の追求という別の規範に反するため、心は深刻なダメージを負うのである。

 こうした試練と挫折を繰り返す中で、理性は生存本能を働かせて苦痛を快楽に変換した。現在は心を締め付けるほどに気分が高揚してくる。

 

 そうして、いつか突然死ぬのだろうな。

 

 鋼のメンタル、つまり鋼の心は上記のストレス原因である規範を心に強制した結果生まれたものである。規範を守ることで身につけた鎧と、規範を破ることで得た剣を装備した心が、その正体である。

 この心には攻撃が効かない。具体的には、いくらプレッシャーを掛けてもびくともしない。焦ることも緊張することもなく、ただ自分の運命を粛々と受け入れるだけだ。

 このメンタルの根底には諦観があるが、そこには自分の価値観に対する揺るぎない自信ものぞいている。自分の価値観、つまり自己規範を充実させることで得た自己肯定感と、自己規範に反することで得られた火遊びのような経験が、この自信の根拠となっている。

 私はこのメンタルを持つことで、他者からのあらゆる期待を無視すること、そして自分の人生を真摯に受け止めることに成功したのではないかと考えている。このような、ある種自分勝手な人生は批判されるべきものかもしれないが、私はこうした批判に次のように答えるだろう。

 

「ごめんなさい。」と。